岸信介「左翼デモ隊を抑えられない。児玉誉士夫に頼んでヤクザに弾圧してもらおう」

安保改定と反対運動
1960年(昭和35年)1月に全権団を率いて訪米した岸は、アイゼンハワー大統領と会談し、新安保条約の調印と同大統領の訪日で合意した。
新条約の承認をめぐる国会審議は、安保廃棄を掲げる社会党の抵抗により紛糾。
5月19日には日本社会党議員を国会会議場に入れないようにして新条約案を強行採決したが、国会外での安保闘争も次第に激化した。

当時、東大に在学し、反対運動も活発な駒場寮に在住していた田中秀征は「反対運動をしていた多くの学生たちが『岸は敵ながらあっぱれ』と言っていた」と回想している。
警察と右翼の支援団体だけではデモ隊を抑えられないと判断し、児玉誉士夫を頼り、自民党内の「アイク歓迎実行委員会」委員長の橋本登美三郎を使者に立て暴力団組長の会合に派遣錦政会会長稲川角二、住吉会会長磧上義光やテキヤ大連合のリーダーで関東尾津組組長・尾津喜之助ら全員が手を貸すことに合意。
さらに3つの右翼連合組織にも行動部隊になるよう要請。ひとつは岸自身が1958年(昭和33年)に組織した木村篤太郎率いる新日本協議会、右翼の連合体である全日本愛国者団体会議、戦時中の超国家主義者も入った日本郷友会(旧軍の在郷軍人の集まり)である。

「博徒、暴力団、恐喝屋、テキヤ、暗黒街のリーダー達を説得し、アイゼンハワーの安全を守るため『効果的な反対勢力』を組織した。
最終計画によると1万8千人の博徒、1万人のテキヤ、1万人の旧軍人と右翼宗教団体会員の動員が必要であった。彼らは政府提供のヘリコプター、軽飛行機、トラック、車両、食料、司令部や救急隊の支援を受け、さらに約8億円(約230万ドル)の『活動資金』が支給されていた」ただし岸は「動員を検討していたのは消防団や青年団、代議士の地元支持者らである」と述べている

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